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明るく、グレろ

言葉でさえ、不安なものだ。それは、信じるほかないものだ。言葉は信じることができないのだから。最初に浮かんでいるというところまでしかわからない。

もっと本来にあった直覚的な意思を自覚しよう。まだ心と同時に宿されてある記憶を明確にしよう。その存在を媒介にして説明するのではなく、それがあるということしか見えないように、一つ目小僧たれ。

 人を気遣うということは、常識に遠慮するという内容が含まれていてはならない。それは結局、行き当たりばったりの慣習的なものに奉仕することにしかならず、その根拠が忘れられているからだ。

 もうあまり君たちに気を使っている時間はない。君たちが君であるところの、そういう本当なものを、独自に貫くために私は相手にすることを制限する。見た目はそう変わらないかもしれないが、心のうちでは遠く突き放しているようなことが、しかしほとんどであるように、元来の多くを視野に入れるだろう。例えば歌謡を作るとき、もうそれしか見ないだろう。そうしなくてはならないのだ。直視するためには。

 私は世を気遣ってきた。それが親であるように。しかしその幼さも知った。それが子供であるように。

 すべてが敵であるように、全く敵はいない。すべて、未熟な個人である。

 とにかく、そう思った。

​2020 1 19

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