感覚よりも思考で立ち、このことの感性で見ろというのか。誰かが。
漱石が猫になったり、グールドが人格を区切ったように、自分の不安定な多作を体系的に把握する必要がある。
如何なる態度で創作されたか、3つの形態に分類を試みる。4つ目があるとすれば、体系化してみるその意識かもしれないが、どうもそれは創作にはなりがたい理論のようだ。だから3つ。
超自我、シャーマン、変態。この3つの態度。
作品が捧げられる対象を仮にXとする。Xはそれ自体で決定されない、対象化されることで変容する、単に可能性であり、実在はしないが、確かにそのようなものがあるとしか他に言い様のない、ある精神の動き、積極的に扱えない、判決できない問題のなさや、神とか愛とか、光の存在のようなものとしておく。まあこの際、Xが何かは別の話なので、ほったらかす。
ほとんどの作品はシャーマンによる。シャーマンに流れる傾向がある。で、これは当人はいいが、端から見ると、ひたすら不味い駄作である。シャーマンはXが話しているような態度である。
あまり試したことはないが、想像した相手への効果を意図するものが変態である。Xをちょっと通俗的に加工する戦略的な道化とも言えるかもしれない。これは気を使った真心でなされるので、本当ではないことを隠すために、技術や化粧のために成りきって工夫してやり続ける。芸人であり、ある意味一般的。
Xをもった人間を想像し、現実の中に置き、Xがそこを生きることを見守っていようとする態度。これが超自我である。この態度は厳格で、先に意識に上った奴はすべて適わない。現実にXもぶち込む。しかし超自我も超ぶち込まれる。するとぶち込むものがなくなり、はじめからすべて現実であるように見える。
最近のもので言えば、シャーマンが「晴天の呟き」、変態が「試しにバナナ」、超自我が「小さな病」だろか。タイトルもなんか、それっぽく見える。
Xを直接見守ることはできない。Xは人間でなければならず、ただしシャーマンのようなXそれ自体の化身であるような振る舞いをする人間ではだめで、無自覚な自然な素朴さが、人為的に変態になることがXを誇示する必要なく、その姿のままであるよう現実の力で語られること。Xが事実以前の現実であること。
Xは架空の人間性であるが、それを見ようとするのも人間なのだから、この矛盾は架空の意味を変える。超自我は、すべてを架空として罰する。というのはすべて現実に落とすことと同義だ。現実もまた架空であるような現実に落とす。ここで仏教は通用しない。宗教は宗教があるという現実の一端に過ぎない。
話しが長くなったが、話は夜を短くするように長いもので、短いものは人の命がそうだからである。
超自我の優しさにはフロイトもびっくりしている。超自我という呼称もフロイトからもらったが、精神分析的な意味ではなく、超越論的な理論でもなく、恐らくは優しいのではなく、そうする他ないようなものがすべて愛であるほかないのだろう。だからもう全部愛なので、こんなつまらない話はない。方法の困難は目的によるのではなく、目的があることによる。
方法の困難は目的によるのではなく、目的があることによる。
言わなきゃいいのに、Xについていちばん雄弁なのは超自我だ。ないのにあるから。もっとも無関心のようで、実はそのことにしか関心がないような、その関心が自ら言わせるということが漏れているとき、何か案外本当かもしれなかったものが始めに据えられるのである。もとよりこんな区別は仮初で、交じり合って何それで、せめてもの身だしなみのような頼りなさだが、ひとりで生きているわけではない。
人に認められ、良いと言われることが、予期せず自分が思いたいことであったかのように思われる場合がある。それは不安である。しかしそれよりほかないような、些細な機会というものを、予期している不思議な偶然がある。