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Sadayoshi Atsumi

渥美定義(アツミサダヨシ)のオフィシャルサイト。

私の考えてみたいものは、音楽についてだが、その問題は「音楽」の中にはない何かである。それは個々の音楽が存在することの、意味論的な関係性でもない。一見自分がはまり込んでいる泥沼が問題のようではあるが、そこから抜け出すためには泥が沼のように広がっているさまを観察するよりも、なぜなら自分の足の裏から泥が発生しているのかも知れず、かといって空を見上げているだけでは何の解決にもならない。もっとも、泥を好む嗜好もあるが。問題は、自らの行い自体にあるとは限らない。むしろ自分の行為が意識的に操作できない構造の必然的な作用の表れでしかないことが、このような問いの始まりには相応しい。(読みにくい文章だな。知識もないのに、調子だけ気取ってやがる。こんなところがもう音楽的にNGなのだよ。)・・・ゴホン!えー、問題は、音楽についてであるが、それとは無関係なものとして私に関わっている。それは言葉でもない。言葉や音楽が自明であることが、無駄な困難を招く。しかし言葉とは何か、音楽とは何かと問うことはできない。なぜならそのとたんにそれらが自明であることを告げてしまっているからである。それを語る可能性を持った場所は、自らがその問いを生きることにしかあり得ない。つまり、身をもって知ることしか。そして闇の中をあっちこっち幻をつかむように行ったり来たりしている領域を一周して、一瞬で全体を把握できるような体系的なものの直感を抽象的に想像し、意味の多様な各地点の形式と内容を、それ固有の必然とは見ずに、もっと広い視野の中に治めえるのかどうか。そしてそれが真に自由でありえるのか。恐らく音楽などはどうでもいい。ただ、自分がそれを扱う以上、気になるのです。

 

自分がちっぽけでいるために、大きな存在がほしい。その大きな存在も、ちっぽけな頭で考えるのだが。大きな存在というものは、神や太陽や富士山やブラックホールではなく、多様な関係を見ることだ。だから存在ではないが、存在を可能にするような、そこから離れる動きだ。「そこ」が知れないのだから。

 

恐らく3つのスタイルがある。この体系を把握することで、それぞれの視点がこれまでよりも多少は明確になるのではないかという期待がある。それについて表すことが、この状況を打開する鍵になってくれたらよい。体系的に!抽象的に!

 

他人を愛することに理由はないが、自分を愛するためには知性が要る。

 

私はずっとダラダラとこれといった節目なく、多作なほうだと思う。そしてその各作品の形や志向がバラバラであり、もっとも作っているときはその時の方法の意味を信じていて、その過程で納得がいかなくなって、初めには思ってもいなかった形が出来上がることもあるが、しかし着想はいつも裏切られる運命であるように、繰り返し同じ過ちに新しい意味を着せては角度を変えてみながら反復している。単に形式に飽きてしまうことが原因であるのなら、なぜ一定の期間を経てまた同様の形式が試みられるのだろうか。例えばそれはずっとカレーを食べ続けた結果、おでんが食べたいとか、おでんが続いてラーメン、またカレーとかそういうことと同じだろうか。同じだとしても問題はそのサイクルにあるのではない。なぜそのような変化が必要になるのか。・・・食べ物の比喩はよくなかった。食事は後腐れがないのだし、過去が存在しないし、残らない。何より創作には精神であるとか、作品が残り、また自発的な意欲や意味を孕んでいるのは、飽きるということとは無関係であり、似たような言葉で言えば、飽き足らなくなるのである。あるいは自己批判される。つまり、私は作品を通して、各品がてんでバラバラの様相である中に、一貫した体系を見出そうとしている。そしてその体系の中を右往左往し、これといった場所を定めて腰を据えて技術を洗練させることを怠り、できずに、やはりダラダラとこれといった節目なく、その時々の夢を見ているのではないか疑ってみたくなるのも素直な成り行きだ。では、私を手の中で躍らせるものは何か。踊れるうちはいいが、ちょっと年もとりますよ、人間だもの。あるいは眠らせるものか。もとより音楽は、聴き手を飽きさせないように様々な変化をつけて繰り返される形式のものだが、そんなことは信じない。かといって神秘的なものを連想したいわけでもない。恐らく私が気がかりなのは、音楽ではないんだけど。

まず、何から書いていいのかよくわからないが、自分が落ち込んでいる場所を書き出してみることにしよう。もしかしたらそんなことも以前にやっているのかもしれないが、もう忘れてしまったから、今の気分に任せてそうすることにしよう。

ひとつ、観念がある。ひとつ、感覚がある。ひとつ、感覚の否定がある。

観念がその出発点である場合。これは創作以前に、ある観念が存在していなくてはならない。それがどういった内容の観念であるかはまた話がそれるので別にして、さしあたりキリストでも人間でも愛でも絶望でもよい。この場合は、言葉が最優先される。観念自体が事物に内容を宿すように働くので、ここがすでに創造の母体である。そしてそれを信じていなくてはならない。むしろ信じているものが観念という形で生きていなくてはならない。少なくとも作っている間は信じているという意識さえ浮かばないようでなければ、嘘くさくなるし嘘になる。嘘でもいいが、そのために意欲は失われるので無駄である。ただ塵一粒の嘘も紛れない完全な詩というものは、理想であっても私には不可能である。せいぜい目指せるくらいがいいところで、大体、歌にする詩というものは長過ぎるように思う。短い文句を繰り返しても、結局は芯を伸ばしたようなもので別物だ。そして観念というものは分野的に哲学や文学、言葉に纏わるものなので、あまり感覚的な操作はかえって余計な効果を与えてしまう。だから、音楽的には素朴なほうが無難なのだ。が、その計算が露骨に演奏に出てしまっては、それによって、あろうことか私が言葉を信じてしまっているというように、音楽の連想の作用が、下手に扱われた仕返しに、主人を醜悪に見せることとなる。言葉を信じているのではなく、信じたことを言葉にしようとしているだけなのに、音楽は自分がまずく扱われると、言葉を浮気な根性のように女々しく見てくれとして見せるのである。だから、情熱的に歌えば歌うほど滑稽であり、詩と音楽の関係は最初の観念の素朴さに懸かっているように思う。そして私はほとんどこの場合の音楽をいじめて得意になる悪い癖があり、いつも後で首を絞められる始末。自分で弾けるレベル以上のことを押し付けてはいけないのだろう。出だしが肝心なのですね、このことに関しては。上達しないのには、きっと何か理由があるに違いないと思った次第であります。キビシー。そして、主題が観念的であるものを作ると、それを聴いていると、もともとそれは鑑賞するものではなくて、ひとつの考えを謳ったものであり、だんだんうるさくなりますね。それは自分の考えが変わってゆくからでもあるし、何かもっと大きな存在が個人的な信念をあざ笑うような意地悪い気持ちになることもある。宗教に違和感を覚える生活の健全な宿命のようなものが沸々と湧いてきたりして、そこにこだわる必要がないし、こだわっていたわけでもないのに、妙に馬鹿馬鹿しくなる。そういうときの自分は、具体的な現実の実際に関わりあって、それはそれで真面目に格闘していて、作品に八つ当たりしているのかもしれないが、とにかく考えが変わっているのである。どう変わっているかというと、生まれた地点に関してではなく、作品が持つ意味に対する態度に変わっているのである。作品が自分を苦しめるのは、後になって意味が分裂するからでしょうか。意味によって生まれたものの意味を探すことなど未練がましくて不快である。そうなると、同じことを言わなければならないだろうか。なぜ同じことを言わなければいけないのか。それは無駄ではないのか。毎日ちょっとずつ、適当に開いたページを、聖書を読めばいいのだろうか。それは形式的になっていよいよ陳腐な呪文に成り下がってしまうだろう。でもやはり聖書はすごいですね。ひとつのことをずっと言い続けるということは、実はとても難しいことでありますね。一見したところとは違い、ひとつの意味にとどまることのできない不思議な忍耐が必要で、それを不思議とも思わない頭もいるし、まるでひとつの島を取り囲む海の潮流が、その全方向から絶え間なく押し寄せる波の終着がおのずと浮かび上がらせる、浮き沈むように見える奇妙な輪郭であるように。私にとって、同じことを言うというのは、言葉の上のことになりやすく、最初に言ったものの力が薄まるような、失われるような居心地の悪い執着心に引き摺られているようで、どうも違う気がしてしまう。塞ぎこんでしまう。及ばず。それならと、もうそんな事情は忘れるように努めて、感覚的なものに傾倒する。知覚的な快感を主題にしてやたらめったら試す。効果を計算できるような音楽の知識をほとんど持たないまま、頭のない嗅覚で探ってゆくように、ひたすら盲目的に心地よさを、感性のみを頼りに。しかしこれも長続きしない。というのは逆に、切がないのだ。そしてどこか実感がない。この方法は、どんどん冷たくなってゆく。これには理由がある。感覚は本来、利己的なものである。快楽的なもので繋がっているのではなく、誰もが自分が快楽を感じることによって生き延びようとしているのだから。これは数学と似ている。数学が重要なのではなく、数学によってもたらされる実用が快適をもたらす。要するに、機械的なのだ。ただ、人が演奏するということは機械的ではない。機械的に演奏することもできるかもしれないが、音楽に期待されているのは反対に精神や人情のようなもので、だからバッハの音楽は完成されているとしても、それを演奏する過程で未完成になってゆく可能性がある、というようなことがある(高橋氏)。しかしこれは工場で量産される便利よりも、手作りの一品限りであるといった個人的な愛情に過ぎないのではないかと、私は鬼のように疑ってみたい。私がそう疑ってみたところで、疑っている自分の怪しさとともに、しかし本当の愛情はそんなところにありはしないとも思ったりする。ここでもまた、音楽を突き放したい衝動に駆られる。そうして、プログラムされた機械の音の冷たさとテーマのループに人工的な遊びを加えるといった手法が、人々を熱狂させたり、独りで風景を瞑想させたりすることは、死を目の前にするよりも、親しく耳の中に取り入れることで何とか生きる力に変えているように思われるのですが、いかがなものでしょうか。そうするとまた、何か言いたくなるのかもしれません。輪を描くことは一度しかできない。もうひとつの輪を描くためには最初の円から離れなければならない。考えながら生きるにしても、考えに頼って生きるようじゃダメだ。はたまた生きていることが考えであっては頼りないので、考えなくてもいい現実が必要になる。ただの現実ではなく、知り得る限りの真相としての。それは騒がしい実際の日常に根を張りながらも、魂は飛翔することを知っている。その翼が、その観念はどこから来たのやら、それはどうしても静かなところで、からっぽな空に目を凝らせば容色麗しく流れる巨大な風の過去から吹く未来であることが望ましく、音楽のようにあらかじめ想定されているものの中に一定の位置を占めることなく、そういった領域のようなものとはまったく無関係なところで、自分では気付かない頭の上に輪が乗ったようなものだ。しかし、こんな風に書くことで確かに少し軽くなったのだとすれば、オメデタイ。しかし一向に冴えない。詩は、書いているときにだけ存在しているのかな。書いてる途中でどこかに落っことしたかな。そういえば、今日は誕生日であった。同じことをずっと言い続けることができますように。

私の考えてみたいものは、音楽についてだが、その問題は「音楽」の中にはない何かである。それは個々の音楽が存在することの、意味論的な関係性でもない。一見自分がはまり込んでいる泥沼が問題のようではあるが、そこから抜け出すためには泥が沼のように広がっているさまを観察するよりも、なぜなら自分の足の裏から泥が発生しているのかも知れず、かといって空を見上げているだけでは何の解決にもならない。もっとも、泥を好む嗜好もあるが。問題は、自らの行い自体にあるとは限らない。むしろ自分の行為が意識的に操作できない構造の必然的な作用の表れでしかないことが、このような問いの始まりには相応しい。(読みにくい文章だな。気取ってやがる。)問題は、音楽についてであるが、それとは無関係なものとして私に関わっている。それは言葉でもない。言葉や音楽が自明であることが、無駄な困難を招く。しかし言葉とは何か、音楽とは何かと問うことはできない。なぜならそのとたんにそれらが自明であることを告げてしまっているからである。それを語る可能性を持った場所は、自らがその問いを生きることにしかあり得ない。つまり、身をもって知ることしか。そして闇の中をあっちこっち幻をつかむように行ったり来たりしている領域を一周して、一瞬で全体を把握できるような体系的なものの直感を抽象的に想像し、意味の多様な各地点の形式と内容を、それ固有の必然とは見ずに、もっと広い視野の中に治めえるのかどうか。そしてそれが真に自由でありえるのか。恐らく音楽などはどうでもいい。ただ、自分がそれを扱う以上、気になるのです。

 

自分がちっぽけでいるために、大きな存在がほしい。その大きな存在も、ちっぽけな頭で考えるのだが。大きな存在というものは、神や太陽や富士山やブラックホールではなく、多様な関係を見ることだ。だから存在ではないが、存在を可能にするような、そこから離れる動きだ。「そこ」が知れないのだから。

 

恐らく3つのスタイルがある。この体系を把握することで、それぞれの視点がこれまでよりも多少は明確になるのではないかという期待がある。それについて表すことが、この状況を打開する鍵になってくれたらよい。体系的に!抽象的に!

 

他人を愛することに理由はないが、自分を愛するためには知性が要る。

 

私はずっとダラダラとこれといった節目なく、多作なほうだと思う。そしてその各作品の形や志向がバラバラであり、もっとも作っているときはその時の方法の意味を信じていて、その過程で納得がいかなくなって、初めには思ってもいなかった形が出来上がることもあるが、しかし着想はいつも裏切られる運命であるように、繰り返し同じ過ちに新しい意味を着せては角度を変えてみながら反復している。単に形式に飽きてしまうことが原因であるのなら、なぜ一定の期間を経てまた同様の形式が試みられるのだろうか。例えばそれはずっとカレーを食べ続けた結果、おでんが食べたいとか、おでんが続いてラーメン、またカレーとかそういうことと同じだろうか。同じだとしても問題はそのサイクルにあるのではない。なぜそのような変化が必要になるのか。・・・食べ物の比喩はよくなかった。食事は後腐れがないのだし、過去が存在しないし、残らない。何より創作には精神であるとか、作品が残り、また自発的な意欲や意味を孕んでいるのは、飽きるということとは無関係であり、似たような言葉で言えば、飽き足らなくなるのである。あるいは自己批判される。つまり、私は作品を通して、各品がてんでバラバラの様相である中に、一貫した体系を見出そうとしている。そしてその体系の中を右往左往し、これといった場所を定めて腰を据えて技術を洗練させることを怠り、できずに、やはりダラダラとこれといった節目なく、その時々の夢を見ているのではないか疑ってみたくなるのも素直な成り行きだ。では、私を手の中で躍らせるものは何か。踊れるうちはいいが、ちょっと年もとりますよ、人間だもの。あるいは眠らせるものか。もとより音楽は、聴き手を飽きさせないように様々な変化をつけて繰り返される形式のものだが、そんなことは信じない。かといって神秘的なものを連想したいわけでもない。恐らく私が気がかりなのは、音楽ではないんだけど。

まず、何から書いていいのかよくわからないが、自分が落ち込んでいる場所を書き出してみることにしよう。もしかしたらそんなことも以前にやっているのかもしれないが、もう忘れてしまったから、今の気分に任せてそうすることにしよう。

ひとつ、観念がある。ひとつ、感覚がある。ひとつ、感覚の否定がある。

観念がその出発点である場合。これは創作以前に、ある観念が存在していなくてはならない。それがどういった内容の観念であるかはまた話がそれるので別にして、さしあたりキリストでも人間でも愛でも絶望でもよい。この場合は、言葉が最優先される。観念自体が事物に内容を宿すように働くので、ここがすでに創造の母体である。そしてそれを信じていなくてはならない。むしろ信じているものが観念という形で生きていなくてはならない。少なくとも作っている間は信じているという意識さえ浮かばないようでなければ、嘘くさくなるし嘘になる。嘘でもいいが、そのために意欲は失われるので無駄である。ただ塵一粒の嘘も紛れない完全な詩というものは、理想であっても私には不可能である。せいぜい目指せるくらいがいいところで、大体、歌にする詩というものは長過ぎるように思う。短い文句を繰り返しても、結局は芯を伸ばしたようなもので別物だ。そして観念というものは分野的に哲学や文学、言葉に纏わるものなので、あまり感覚的な操作はかえって余計な効果を与えてしまう。だから、音楽的には素朴なほうが無難なのだ。が、その計算が露骨に演奏に出てしまっては、それによって、あろうことか私が言葉を信じてしまっているというように、音楽の連想の作用が、下手に扱われた仕返しに、主人を醜悪に見せることとなる。言葉を信じているのではなく、信じたことを言葉にしようとしているだけなのに、音楽は自分がまずく扱われると、言葉を浮気な根性のように女々しく見てくれとして見せるのである。だから、情熱的に歌えば歌うほど滑稽であり、詩と音楽の関係は最初の観念の素朴さに懸かっているように思う。そして私はほとんどこの場合の音楽をいじめて得意になる悪い癖があり、いつも後で首を絞められる始末。自分で弾けるレベル以上のことを押し付けてはいけないのだろう。出だしが肝心なのですね、このことに関しては。上達しないのには、きっと何か理由があるに違いないと思った次第であります。キビシー。そして、主題が観念的であるものを作ると、それを聴いていると、もともとそれは鑑賞するものではなくて、ひとつの考えを謳ったものであり、だんだんうるさくなりますね。それは自分の考えが変わってゆくからでもあるし、何かもっと大きな存在が個人的な信念をあざ笑うような意地悪い気持ちになることもある。宗教に違和感を覚える生活の健全な宿命のようなものが沸々と湧いてきたりして、そこにこだわる必要がないし、こだわっていたわけでもないのに、妙に馬鹿馬鹿しくなる。そういうときの自分は、具体的な現実の実際に関わりあって、それはそれで真面目に格闘していて、作品に八つ当たりしているのかもしれないが、とにかく考えが変わっているのである。どう変わっているかというと、生まれた地点に関してではなく、作品が持つ意味に対する態度に変わっているのである。作品が自分を苦しめるのは、後になって意味が分裂するからでしょうか。意味によって生まれたものの意味を探すことなど未練がましくて不快である。そうなると、同じことを言わなければならないだろうか。なぜ同じことを言わなければいけないのか。それは無駄ではないのか。毎日ちょっとずつ、適当に開いたページを、聖書を読めばいいのだろうか。それは形式的になっていよいよ陳腐な呪文に成り下がってしまうだろう。でもやはり聖書はすごいですね。ひとつのことをずっと言い続けるということは、実はとても難しいことでありますね。一見したところとは違い、ひとつの意味にとどまることのできない不思議な忍耐が必要で、それを不思議とも思わない頭もいるし、まるでひとつの島を取り囲む海の潮流が、その全方向から絶え間なく押し寄せる波の終着がおのずと浮かび上がらせる、浮き沈むように見える奇妙な輪郭であるように。私にとって、同じことを言うというのは、言葉の上のことになりやすく、最初に言ったものの力が薄まるような、失われるような居心地の悪い執着心に引き摺られているようで、どうも違う気がしてしまう。塞ぎこんでしまう。及ばず。それならと、もうそんな事情は忘れるように努めて、感覚的なものに傾倒する。知覚的な快感を主題にしてやたらめったら試す。効果を計算できるような音楽の知識をほとんど持たないまま、頭のない嗅覚で探ってゆくように、ひたすら盲目的に心地よさを、感性のみを頼りに。しかしこれも長続きしない。というのは逆に、切がないのだ。そしてどこか実感がない。この方法は、どんどん冷たくなってゆく。これには理由がある。感覚は本来、利己的なものである。快楽的なもので繋がっているのではなく、誰もが自分が快楽を感じることによって生き延びようとしているのだから。これは数学と似ている。数学が重要なのではなく、数学によってもたらされる実用が快適をもたらす。要するに、機械的なのだ。ただ、人が演奏するということは機械的ではない。機械的に演奏することもできるかもしれないが、音楽に期待されているのは反対に精神や人情のようなもので、だからバッハの音楽は完成されているとしても、それを演奏する過程で未完成になってゆく可能性がある、というようなことがある(高橋氏)。しかしこれは工場で量産される便利よりも、手作りの一品限りであるといった個人的な愛情に過ぎないのではないかと、私は鬼のように疑ってみたい。私がそう疑ってみたところで、疑っている自分の怪しさとともに、しかし本当の愛情はそんなところにありはしないとも思ったりする。ここでもまた、音楽を突き放したい衝動に駆られる。そうして、プログラムされた機械の音の冷たさとテーマのループに人工的な遊びを加えるといった手法が、人々を熱狂させたり、独りで風景を瞑想させたりすることは、死を目の前にするよりも、親しく耳の中に取り入れることで何とか生きる力に変えているように思われるのですが、いかがなものでしょうか。そうするとまた、何か言いたくなるのかもしれません。輪を描くことは一度しかできない。もうひとつの輪を描くためには最初の円から離れなければならない。考えながら生きるにしても、考えに頼って生きるようじゃダメだ。はたまた生きていることが考えであっては頼りないので、考えなくてもいい現実が必要になる。ただの現実ではなく、知り得る限りの真相としての。それは騒がしい実際の日常に根を張りながらも、魂は飛翔することを知っている。その翼が、その観念はどこから来たのやら、それはどうしても静かなところで、からっぽな空に目を凝らせば容色麗しく流れる巨大な風の過去から吹く未来であることが望ましく、音楽のようにあらかじめ想定されているものの中に一定の位置を占めることなく、そういった領域のようなものとはまったく無関係なところで、自分では気付かない頭の上に輪が乗ったようなものだ。しかし、こんな風に書くことで確かに少し軽くなったのだとすれば、オメデタイ。しかし一向に冴えない。詩は、書いているときにだけ存在しているのかな。書いてる途中でどこかに落っことしたかな。そういえば、今日は誕生日であった。同じことをずっと言い続けることができますように。

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