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Sadayoshi Atsumi

渥美定義(アツミサダヨシ)のオフィシャルサイト。

結局、どんなに理屈をこねてみたところで、自分の発声発言や創作に、恥ずかしいもの、絶望的な気分になること、幼稚さ、独断的なものを感じざる得ない事実があることにはかわりない。下手な慰めの工夫に終始する、自信のなさなのだろう。畢竟!本当に何が歌いたいかをわかっていない足掻きに過ぎず、これはもう自己弁護するよりも根本のことで、真の罪人は罪を知らないのであって、云々のはなしをもう理屈をこねはじめていて、そんなことではなく悪人正機も弁護的であって何某、私は、本当に歌いたいことを、たとえそれが恥ずかしいもの、絶望的な気分にさせるもの、幼稚さ、独断的なものであったとしても問題がそこにはないような、たぶん魂を、ああ心とかよく使われる4画や象形について、意味を考える前に生きなくてはいけないのだろう。私は遅れているのだろう。それは進む先が疑問なのではなく、足があることの当然をぶらぶら歩きながら考えるような実際の遅れが持つほかない疑問性である。本当に作りたいものは、自分の胸に手を当ててみることではなく、胸から手が伸びることだ。何を掴むか知らない。しかし、それは問題ではない。自分の魂が求めているものの本当は何か、わかってないからダメなのだ。そして魂が何かといえば、それは言葉の上での魂で、要するに本音を経済や国家制度、そういった事情から離れて、欲望や性的な自然とも異なる領域が、あたかも普遍的であるひとつ人生のあっけなさの根拠として消える、友達なのかもしれない。探さず、見出さず、借りず、信じず、つくることが愛であるのがよいと思う。舌は熱いのが苦手。
​おシャーマン
変態
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超自我さん
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