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美に根拠を想像することはできないが、何か真理のようなものの根拠が美を創造させているように思われ勝ちである。そうでなく、美があるということ自体が創意の根拠となるのであって、理性が自らの出自を自由に語ろうとする場合には、美は甚だ頼りないものだが、だから饒舌であり言語に移ることもある。
美ははじめ、言葉の一部であったにもかかわらず(ここでは考えられ得る美に限る!思考を越えた究極的な美については私は何も知らないし言えないし言う必要がない)その構造のすべてに感染することで、詩に至ろうとする。シニイタロウトスル。
単に感覚や感性に対する思考の優位を言うだけでは解決されないので、もっと推理が必要であり(というのも犯人は捕まるよりも逃げだすことが先決であるように)方法的にであれ美を病のようにあつかうことが、すでにそれに翻弄されている自分の頼りなさに過ぎないのだが、頼りになる気もさらさらない。
例えば美が言語を超えるとはどういう意味か。要は美が言語のような構造を持つと言うことではないか。しかしその内容がすでに言葉に依っているのであり、もっと言えば美の基準は、それが...感覚を通して判断されるのであったとしても、それ以前に母国語、国、風土や歴史によって欲望化されているのである。
美はだから、「美しさ」といったものに、マトワリツカレル運命にある。
「美しい花があるだけで花の美しさはない」という小林の文句を安吾はよくわからないまじないのようなものとして批判しているが、あえて知れた風に言ってみれば、美しいと感じる感性があるだけで、感性の美しさはない、それはもはや虫の触覚のようなものであり、子どもの遊びであることが救いである。
しかしそこにやはり人間的なものの美しさをもし見たいというのであれば、それは案外、美に退屈しているだけの怠慢かもしれず、好きにするのがいい。好きにするのは別に美しくない。美しいものはなんて、そんなこと言ってられるなら、それはもう何だかよくわからないが、美ではない。もう全部美でいい。

鑑賞することを学ばなくては。

 

もしも本当に美しいことだけ思い浮かべることができたら、案外それは本当のことかもしれない。

 

美を恐れてはならない。

 

音をとることが面倒である。女の人の仕事のように感じる。でも音取ります。まだできる前の、それに伸ばす手が要るなら。

肉体と同じように、魂の生活と呼べるようなものが、やはりあるのだろう。

 

自分を愛することを学ぶ必要がある。自分を甘やかすことではない。もしも何かを愛することができるのならば、それができることも愛されているのである。なぜなら、愛とは何かを積極的に言うことの方が、よっぽど自分に対して甘ったれているように思われるし、それは乞うものでも、与えるものでもない。

 

もしも自分を愛することができるのならば、それは愛することができる人間の活動全体を肯定するのであって、むしろ対象、つまり自分とはあまり関係がない。傷つけるものと同じ力で励まそうとする、一方的な力の流出を防ぐ、ある種の方法として試してみる価値があるかもしれない。

 

目は見ているだけではなく、見ている目があるということを内側に囁き続けてもいる。

 

何かを愛そうとしている私を、私は励ます。目的となっているその何かが、そのことも要求するように思われるからである。それは愛情のようなものにこだわる使命のことではない。一切にこだわらず、愛にも執着せず、むしろそのような通念が邪魔であるような態度をとるような戦略として、このことは吟味に値する。

 

自分を愛することと俗なものを嘲笑することは違う。自分も俗なものとして微笑みかけ、他人にも自分というものがあり、そのことに悩み悲しんでいる場合に良心が働くことと、何か違うのか。自分を愛することとは自分を理性的に捨てることであり、他人への批判は否定することではなくただ自然である。

 

人が死んでも生きていると思われる根拠は、人が生きていることである。

 

美女がいるが、生殖器的には同等であるのに、しかし確かに構造的には実感的に異なるとしても、これは理性と実感と物性の饗宴であって、美女という意味には、それ以外がないという性的な純粋性がある。

 

自分の愛に適うようでなければならない。そうすることでそれが何かが現れてくる。疑い得ない自分の受け継いでいるものを、批判できるのは自分でしかない。

 

美しいものに惹かれるのは自然な人情であって、感化され、インスピレーションをもらい、ありがたい、さっそくそのものと同じ視点に立ったつもりで、味わった感覚を言葉を抜きに思想にまで高め、ぜひ感性にも協力したいともう洗脳されているのだが、しかし美を批判する必要はない。美が他人を批判しなければいい。

 

もしかしたら、本当に、歌や音楽があることがすでに邪魔だと無意識に思っているではないか。私は、それがないことの愉楽を独りで勝手に直感していると自惚れようとしているのではないか。亡き者の姿として、再び現れようとしている格好ならば、まだ理解できるかもしれない。

 

しかしこんなことを言う私の方がよっぽど美に翻弄されているのであり、もっともつまらない話ではあり、要するに結局ただスケベエなのだ。

考えで見ているのではなく、考えが見ているのだ。

ものを書くようにうたいたい。要するに、音楽は飽きる。じゃあ黙って文字通り書くことにして、歌は音楽を要するのだから矛盾じゃないかと言えば、方法のうえでは確かにその通りだが、ナニカニツケ、そんなに都合よくできていないのが極めツケで、人情よりもむしろ論理の微笑だ。

書くようにとは、具体的にどういうことだろう。それは何も残さないように記そうとすること?残す必要もなく記していること?書かれたものに感情的に寄り添ってうたうこと?歌の形式に書かれたものを載せること?ペンをもってうたうこと?言葉が話しに戻ること?ちがいまーす。とても抽象的なことです。

 

書かれたものは、書くものを知っている。​

書いたものを誰かに読んでもらいたいというのは、具体的にどういうことだろう。それは誰かの反応についてではなく、それ以前に、誰かが存在しているということへの絶え間ない痕跡に過ぎないとしても、涙よりも乾きやすく拭う必要もない、究極的な透明な黒で極まっているユーモアである。・・・涙?

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