Sadayoshi Atsumi
渥美定義(アツミサダヨシ)のオフィシャルサイト。
音楽のスタイルにこだわらなくてもよい。音楽がスタイルで、すべて循環しているので、もうどれも同じことだ。それらのうちのひとつのスタイルに固執して考えること、意味についてだが、それが別のスタイルを誘発する原因となる。この動きは迷妄であり、これらの関係の輪を断ち切って自由になることが、私の詩と音楽のともに目指すところであり、うたわれ続けることで存在するほかない。そしてその内容についても考えなくてもよい。それは直観だけでいい。直観のない考えは余計であり、説明は詩の仕事ではなくて無駄である。それは他の分野で存分に生かされる。つまり、何の頼りもないことが、詩を書くことの力となっている。それはすでに考えてしまったことである。考えがなければ成り立つことのできない問題ではない。対象にしたものをある理想から批判しようとすることや、対象が存在しているその現実に同調することを停止し、詩をあたえる対象として、批判や同調といった一切の私的な対応を放棄し、そのまま限定的な内容を体現している唯物的な対象としてとどまらせる視点が必要である。それ以上に語ろうとすることは、本来の詩を離れて余計なことを想像させて有害である。しかしこの余計なことが一般的には詩的なものだと思われてはいるが。誰も決して、自分のことで生きているのではないのだから。
しかし直観とはなんだろうか。私が確認したかったのは、自作を否定する力の輪廻のような切りのない構造であったとしても、それ以外に何か、直観がなせる力があるのだろうか。その力で成せる、それらの八方塞の、しかも私は経済的にも心理的にも自覚し得ない様々や要因によって常に引っ張りダコであり、直観的であることが如何なることかを直感的に知っているかのように信じているに過ぎないのではないだろうか。だから、これらの体系から逃れることはできない。ただし、このような関係があるということを把握しておくことは重要ではないか。何処にも到達することがないとしても、できないとしても、続けていてもよいと、その筋で考えることはできるようだ。そのたびに泡のような目的は、もとの泡に戻るだけだ。そうしてみると、これらは作品の話であるのだから、作品ではないものが直観の対象であるように思われてくる。要するにそれは人間や魂のことなのだが、それと対峙するにはむしろ作品が邪魔だということだろう。作品を作らないように創作するということ。それを祈りと呼ぶのは大げさである。恐らく自由や共産といった呼称ではなく、過去から未来へ動いているもののなかに誰もが存在しているという事実のために、名指すことのできない遊びの規則かもしれない。あそぶべし。どーん。