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信仰、このことのために、あらゆる学問、哲学、芸術、その他、文学等の、複雑な展開を、自らを信じることが信仰の局所的な講評であるように、裏ではしっかり勘定された経済の都合も手伝って、今ではそれは常識という名の、曖昧模糊とした空想の方便に落ちているのではないか。常識を破ることが要された常識であるような、資本の目に見えにくい操作、命令によって、最も意味について考えることが、その結果、世情的なものを介さずにはいられないような同情が、一部の血統に限られる傾向にあることに気付かず、信じること以前に負う必要のない痛手を、家の観念にしているのではないか。素朴な信仰を、それらに意識されず、しかし常識になりえた歴史を粗末にすることなく、実験であることの異形が先ずは信仰でありえたように、いつか形が総じて神の住まう家として、人が住むことの世界は、紙を折るように、広げたものを、畳むように包まれ、その一転から織り広がってゆく。信仰とは、自他なき世界の根拠である。自他なき世界がないから、どちらかのことのように興るのだ。もしも同じであるならば、世界ではなく、信仰が生きた証拠の実験だ。それはただ信じているということではなく、明らかにしたいという考えでもある。強要が信仰するのではなく、観念を持つではなく、何かが当然であるということが、思われたならそうであるように、良き方角は、求める場合に未知ではなくて、道であるように感じられる論理であった、歴史の可能だ。

 

真面目でありたい。繰り返すことが考えなくする。一体何を繰り返しているかを、考えたほうがよい。そしてそれは、それに、執着しない方法だ。先の意味を、制度や権力が大勢を利用するように隠蔽するにしても、弱くて小さなものの信念が、天が総て、大いなる家の偉大さである。はっきりと物を見るように、見せる視点より他者であり、真面目でありたい。

 

風景ははじめから私をそのように見せている。その約束は、約束のないことの不安を人の性にすることだ。とてもたくさんの人が、約束事のように話している、事の同情だ。事が情になる。歴史は風景ではない。事情を同じくすることが、事であり、信仰だ。

 

もしも心が言葉で、もっとしっかり小さくなったほうがいいのなら。吹き荒れる空虚な風の音ではないのなら。

 

私は音楽を信じよう。なぜならそれは実際にある確実な嘘の証拠だから。だからこそ、他のことを信じるのに値するのだ。それは、音を白眼視した、耳もない通路だ、ただあるだけの。

 

言葉が構造化されているのならば、何が矛盾しているのかを、無意識に感じるほかない。

 

現実における改革をあきらめて、想像の領域にそれを求めるとしても、想像によって現実を変容させることなど不可能であり、むしろ想像が現実によってこそ可能であるように、そこからも何処か外れている必要がある。現実もまた、ゆくゆくはグレたひとりの野心ではないように。結局、空は明るい。夜は、美しい。特に火が水に映るような、時は。

 

私が邪魔で、私が見えない。眼球。たま。

 

ひのたま。

 

詩的なものを生きようとする私情よりも、そうではなく、理論的なものが詩情を備えているかのように、私と、詩を去ること。書かれているものが何かを、決定しないこと。ただし、それを根拠にせず、あくまでも形をとって、無形を理由にしないこと。象であること。

 

残らないものの声であれ。

埋もれたものの声であれ。

それが本来であるように。

 

経験的なものは、すべてどうにもしようのないものである。それら周囲の物事に対して、批判的に思いをめぐらせるということは、どうしたって勝ち目のないことだ。思いというものは、経験的なものに向けて反省の攻撃をするのではなく、経験の中心に核として宿しているものである。それより前にあって、経験を可能にしているものである。注意しなくてはならないのは、経験から思いが産出されるかのような倒錯であって、それは道徳であるかもしれないが、いかにも一般的な多数決の制度が要求する政治の自然であるに過ぎない。制度が要求するものは最小限であるのがよろしく、またそれ自体が滑稽であるような慎んだユーモアを自覚する余裕がなくてはならない。自ら考える余裕のない忙しない人は、その強いられた自然に服従し、そのことが立派な活動だと思っている。その自然がそのように思わせている。なぜなら闘争の歴史がそのように教育しているからであり、さらに言えば闘争という無批判が、自制なく、自生しているように、経験的なものは、すべてどうにもしようのないものである。思うということは、事前に目的があってのことではなく、むしろ経験的なものに何の目的も見出せないような自分の出自に関する応答なのではないか。自分がそうとは思いもしない目的が、思いという形をもって現れてくるのではないか。

 

現代の困難は何か。目に見える困難。信仰がないこと。信仰という概念がないこと。近親のものの外に、他人を見出せないこと。信仰の対象が経験的な商品に限定、多数の欲望に忠実に反復されている傾向の中にあること。

 

信仰が宗教的なものに落ちて、時の政治や経済、泡沫のイデオロギー、押しなべた芸能の術に、何か文脈の利己的なものが、それがちょうど隠れるくらいの大きなことを、都合された結果に巻かれながら言っていることの局所に、本当ではないように嘘を信じ、そうと分かって騙されるように、占うたびに右往左往することが、都会的な処世の常識だということ。

 

他人の信じているものを求めるな。自分を信じるのではなく、自分が信じるのだ。

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