top of page

Sadayoshi Atsumi

渥美定義(アツミサダヨシ)のオフィシャルサイト。

Oyamaから、

ぜんぶ。

        

探検

沈静

蝸牛

老犬

日射

花見

花火

白紙

月明

今昔


2014年11月5日
BACH009 (JAN:4580268540099)
 

『おやま 』

    

namimakura

Flower

Long galleryから、

すこし。

        

『LONG GALLERY 』

    


2014年1月29日
BACH008 (JAN: 4580268540082)

 

御習字のつもりで自分に課した、まったく読者を想定しない善意なき制作ノートとして試みられるのである。しかも作品を作ってしまった後に記録することで、ある程度「批評的」なニュアンスが紛れ込む。つまり、作品を殺しにかかりかねない方向に意識が流れる箇所が含まれている。曖昧模糊とした概念が充填された玩具の散弾銃をバラバラと作品に向かって放射する苦々しさが残るかもしれない。が、殺す器量も必要もないので、稚拙なこの走り書きはマッサージであればよい。散弾銃的マッサージの後に飲むブラック・コーヒーの後味ぐらいものとして消化され、読み返されることはない。なぜなら「作るため」がそもそもの次第であるのだから。「理論的に語る必要」などと書き出した性格上、どちらかといえば「批判的」な考察を志向するのだが、自分の筆力が記せる境界の点線ぶりに、双方が漏れ出してしまうといった余計な事態が相次いで発生する。しかし、ここで言う「漏れ出してしまうこと」は、性質として許容して飛ばすのだ。私の世界はオネショの地図であってよい。歌声はオナラであったほうがよい。決して褒められたものではないが、そのようなものの愉快の部分があってよいと思っているのだからしょうがない。ゆえにここには当然のことながら期待されるような希望や冒険、真理や芸術、恋する心や善意や信仰、そのほか幾らでも捏造できそうな素敵な誘惑といったものが、ない。むしろないようにしたい。でももぐらたたきのようにひょっこりたくさん出てくるかもしれない。ピコピコ・ハンマーを片手に綴るのである。思慮深いコンセプトを設定し遂行するということではなく、贈るべきものを説明するといったことでもなく、形式の積極的な未知の構造でもない。何を遣り取りしているのかを思考する行為そのもので感受する呼応の夢物語であり、そのための文章であり、知識ではなく当然の困惑でしかないままに、日の光に縁取られてあからさまな輪郭を目前に想像される歴史…なんてものよりも、今ここに、「今ここ」さえも死語のように、生きること。生きることによって必然的に前者を実践してしまっている事件簿。一体何が離ればなれに起き続けていることだろう。認識の差異が言説化されることによって絶えず零れ落ちてしまいそうになる「可能である可能性」といった体験のリアリティに関係した運動、使用方のないもの、滑稽、出来事に延びる前の「繰り返される尊さ云々」の冷静な遅延、迂遠。無骨な石ころ。この「みっともなさ」の一例をある程度、理論的に語る無謀な必要性を夢見る。そのような表し方のコミュニケーションがある所以。洗練された紙面に突出する擁護でも啓蒙でもない。通じ合う必要など一切ない。無限のままに関係し合わざる得ない逆説的な共同性に、当たり前でありたい。

『Long gallery』という作品について、何も解説には及ばない。それは羅列であり、曲頭の10秒ほどで次々に飛ばして聴いていただくことでほぼ内容が完了してしまうような独断のルーレットである。何も心地よく賭けられることのない、円環状の2項、出来の悪い数学の解答用紙のような譜面の不在のために、このアプローチは空転し続ける。インスピレーションのない模倣の羅列。律儀さのない労働の翻弄。何も解説には及ばない。解説する面白さが、浮かばない。

何か言ってみたいと感じるのはその後に制作した『Silence story』についてだ。モッタイぶることなく、ごくアッサリと試みたい。『Silence story』をおはなしする。「どういう曲をつくってるんですか?」という問いに、ちゃんと答えられるように。と言いつつも、ほとんど個人的な快-不快の渦中、原則なき跳躍の始末であるこれについて、どのような語り口が有効なのか、正直わからない。しかし、もう「インスピレーション」とだけは言いたくないので。思いつきなんかで、やってられないので。挑戦する。

既にある音楽史や楽典の普遍性から考察される形式的な面白さや説得術に立脚して出自を語るのではない。そういった目で見ればこの作品は明らかに何一つ提供できるものをもたない。(むしろ提供しないのだが…)極まりない陳腐と自己言及の共同体に対した無関心さに落ち込むほかない。設定されたパラダイムの中で跳ね回るのではなく、ある労働的な認識によって作られたという事実性を回復させる試みとして、記述するのであり、限定的な領域としての理論とは、あくまでそのための戦略に過ぎず、提示されるものの本性は決して理論的ではありえないことは当然の帰結として先に確認しておかなくてはならない。

ひとつの倒錯的な物語をそれとなく提出しているのだが、具体的にその作法をなぞるとすれば、大きな「うねり」の文章が像をさらい易いように思われる。方向性ではないのだから、補強するための局所的な分析はこういった作業には向かない。それは作品の中で作品を論じることになりかねないし、対象としたい問題の矮小化に落ち着くほかない落ち着きのなさにズルズル引き摺られる心配がある。方向が生じる瞬間に、これが文章である以上、初めと終わりと時間とが悲鳴をあげる。球体のように断絶的に、あくまでも断続的に継続される反-音楽的な記述。音楽を語ろうとするのであれば、音楽に似たように書かれてはならない。青い海に浮かんだ、白いボールみたいに。

Dom!

たとえば太鼓。それを決して叩かなかった。叩く必要もない。なぜならそれは触れるだけで鳴ってしまったのだから。触れるだけでどうしても鳴ってしまうくらいに極度に張り詰められた面という物質。祭りで賑わう人の鼓動を鼓舞する享楽的なあの歴史性を逆説的に引用するかのように、辛うじて反撥されながらそれを擦ってみる。眠る子供の背を無心で諭す記憶を超えて執拗に愛撫する手のひら、あるいは爪でもよい。それを掻いてみる。書くことの音像。何を書いているのか皆目見当もつかないままに、記される欲望の不可視の形象と意味に不意に魅せられること。「触れるだけでどうしても鳴ってしまう」ことに特化されたものを前にした戸惑いに疑いなく任せること。それがリズムであるような信頼。何度も触れる必要がある。それがここでの太鼓のBomである。でんでんでん。ねんねんねん。しゃぁしゃぁしゃぁ。そしてそれは見ることのない、やっぱり動物の皮である。

ABCDEFG ///A ∞

和音が音の隠蔽であることについて何時までも繰り返される方法論がさらに事態を助長する。かといってその逆もまた同じ運命を逃れ得ない。音が和音の隠蔽であるということについて。それらは数学的な問題にイメージが付与された形で何時までも変奏され続ける。数字は数自体を露出することは出来ない。音楽もまた音楽自体を露出することなど出来るわけがない。それは思考に関するリアリティであるとともに、単に聴覚的な平衡感覚、生理でもあるというあからさまに矛盾した振幅構造を持っているからである。ならばその「振幅」こそが音楽的であると言っておけば、もうそれきりで良いのではないだろうか。それ以上に積極的に双方を語ろうとするならば、それはただのテンションとしてしか生きられない物語でしかなくなってしまうだろう。それもまたもちろんすごいことなのだが。

2つのコードの間を往来する過程にひとつだけ紛れ込んだテンション。もしも望むのであれば、誰にでも弾けるような恐れなさを賞賛し、音楽は振幅を反復する。それを論ずること一切がもはや時代遅れであるような美しさと恐ろしさとを共鳴させようと目論んでいる。まったく、だから微かに震えている。そこに震えなければ「知っている人」に聴こえてしまうに違いない。犯人は言うまでもなく、温かくなるためにという弁解さえも奪われたまま、秘密を奏でることの無根拠性を快く受難しつつ、ごくごく簡単に事の次第を供述しはじめる。最初は音であったものが、造作なく紡がれながら、それと同じ速度で解体されてゆく、あのテクストと呼ばれた残さない痕跡。それがここでの譜面のBomである。たとえば「かけがえのない人」の、手紙であるよりも、それを在らしめている、やっぱり筆跡である。それさえも、物語であるような執拗な魂。

Plus Minus 000.。。1 x  Plus!

歌詞を歌うのではなく、言葉を発声したいという非-文化的な単独行動について。歌詞が書かれる過程の文化的な営為の限界は、その内容がどんなに普遍的な事件を志向していたとしても、言葉がそのための手段として偏在してしまわざる負えないパラドクス、言葉が目的であったにもかかわらず、それそのものが崩壊した瓦礫に埋もれながらの絶え間ない再構成である点において、文字通り文化的で在らざる得ない制約の了解にある。その共同性において、歌詞は読まれる以前に読まれたパフォーマンスであり、せいぜいイメージの緻密さと心情の機微に開き直って格闘することで、共感の場を提供できるという特殊性に錯覚するほかない。言葉を発声すること。それを神秘化することなく、何物をも秘めることなく光に晒し、その表面に詩として生き延びようとする言葉が馳せ集まるままに消滅させること。言う必要のない、と思われていること。

たとえば<sing a song>と連呼してみる。別に<歌を歌う>とか<さあ、歌いましょう>とか言っているのではない。歌の特権を殊更めでたく称揚しているのでもない。あるいは思いついたままにその響きが単に落ち着いて、配置の面白さに遊戯的な鑑賞の機会を譲ったということでもない。そのような解釈さえも一向に構わないままに、これはある動作を模倣する。言葉が歌うことを模倣することで、自ら滑稽を演じること。それがここでの歌のBomである。

………………………….

如何なる知識も技術もないままに、無邪気に何かを信じ切ったように、ピアノの和音がフォームの変化を拒み続ける。たとえば能楽堂のあの正しすぎる柱の基準の機能を引き受けるためだけに、その動きを計りたい欲望のままに存在する、生きた定規としての陶酔だけを課せられたパート。ピアノの音であるというだけで、ある歴史性を記憶させられてしまっているという無条件の浸透ぶりによって、より一層「反復的」なこの機能を残響が保管する。空間の広がりを演出すると思われている残響の余韻について、むしろそれが「閉じられてあるがゆえにそう感じる」だけの物理的な印象であるという点について、それは背景の倒錯的な証明でもある。監禁された広がりである形式的基準の天使性。それがここでのピアノのBomである。

厄介なものに出会わないように。到着を知らせるために。推移するものの節を記すもの。時に宗教的なものさえも存在させる道具として日常的にそこかしこで鳴っているベルは、文句なしに象徴的である。それは状況の中にあって前提的にある予感を孕んでいる。何の期待もロマンスも危機的な状況もありえない、「予感」そのもののためにだけ響くことに特化された、美しいまでに無謀な象徴性。ゆえに、それは鳴り過ぎると容易く悲劇に転じてしまう、見た目よりも非常に繊細な使命を負わされており、たとえばそれを小さく複数に分散して集わせたリング・ベルは、小児の玩具を越えて、むしろ大人びて可憐である。マイクと音源の間に太腿を挟んでみる。膝に猫を乗せるように鳴らしてみる。それがここでのベルのBomである。チャン↓・チャン↑♪

/◎☆☆☆   Circle

リング・ベルの柄を、スティックで、打つ。その乾いた打音とともに、ベルが震える。ほぼ同時に鳴る。別々に鳴らせるのではなく、シンクロして鳴る。この差異のニュアンス、具合は如何が?何の疑問の余地もない、選択される趣味のない、色彩のない物理的な信頼。それがここでの装飾隊のBomである。

∩∩

指を鳴らすこと。テスト。試されること。それも果てしなく試されることによってのみ、その証明で在りえたかも知れないという種類の反復。触れた後の合図。それがここでの指のBomである。痛くはない。

&$ /$$$$$$$$$$$$$$$・・・山

ギターしか弾けない。しかも辛うじて奏でることができるといった程度の奏法。楽器とは究極的に唯ひとつしか存在しないのだという世界性を欲望する結果、個別の技術的な階段の果てで再会を誓い合う職人的な実際性の機会を逃し続けているのである。それについては何ら積極的な意味はなく、そのまま自らの夢に恥じ入るほかはないが、かといって既に「技術」という言葉が先刻語られるような時間的洗練のイメージに、何の違和感もなく納まりがついてしまう道徳的な文脈自体がある程度「技術」の可能性を損ねているもどかしさ、決して技術とは何かではなく、そこで起きている何かが謂れのない夢であり、そうそう恥じ入ってばかりもいられない事情を明確に意識することのために技術的なものが回復されるといった盲目性が、「唯ひとつしか存在しない」と言わしめているに過ぎないのだが。

技術が夢を再現するのではない。まして夢が技術を超越するのでもない。そのような都合の良さとは程遠い地点で、技術それ自体が触知可能な「夢」であることの継続、その結果から振り返ったに過ぎないという豊穣な沈黙。成す術もないままの継続によってのみ関係される世界を欲し続けるといった親和性に、纏いつくそれに抗いながらも、なお魅了されてしまうということ。すべてが光の比喩をもって、しかも実際にこの光に晒されてしまっているという事実性とその反転のあり得なさに共に打ち震えること。見境なき痴呆のドラキュラ伯爵のようにしばらくして恐ろしくなり、不意にそこにいた見ず知らずの誰かと見詰め合ってしまった視線が限りなく平行化され重力に屈せず、時は脅えて収縮し、なぜだかわからないまま呆然と屈せず、そんな人生のとおりゃんせに嬉しく微笑みかけながらも泣き崩れずにはいられない残酷な驚きを、誰もが無条件に支えあっている。もはや何ものを失うことが出来ない推移の中で、忘却されつつあることをも快諾するといった種類の、前代未聞で不可避的な、当然の継続。手足を捥がれた愛が、しているということの夢。どんなに正しくとも、舌を出した仮説以外にこの逆を言うことはできない。それがここでの演奏のBomである。

Electricity!

B.BBB.BBBBB.BB——- 電子音。お望みであれば何時までも鳴り続けることができそうな表情のまま歴史の不在を享楽する機械。歴史に疲れた時の強壮剤としてではなく、レクイエムのために配置された教会の色彩のように、あくまで歴史に捧げられるための「同時代性」に接近する個人的な遊戯として機能する。それは単体では何物をも創造しない。記号にさえなることはない。それは外部性を無化する方向に向かって響く。その性質ゆえに単純に快楽的であり、科学的な反動としてはエロティックなのかもしれないが、それは先に歴史的なものが存在することの補完として許されるのであって、その仕草はあまりに遊戯的でありすぎる。だから遊戯的に浅く鳴らして沈黙を、本来の祈りを縁取る、相対的な動きとして忍ばせる。それがここでの電子キーボード、オルガンのBomである。

Bom!

自分もまた、他者である。それがここでのコーラスのBomである。

Bom!Bom!

過剰でありたい。それがここでの囁きのBomである。

Bom!Bom! Bom!    Bom!Bom!Bom!    

構成すBom!ること。そBom!Bom!れがこBom!こ・・・でBom!・・の楽曲のBom!Bom!で・・・あ

 

 

<<Boooooooooooooom!>>

 

 

 

 

  プシュ~ プスプス・・・

 

 

 

 

                  2014.1.1

舞い降りて、

                 

 

           

        プスプス。 

舞い降りて、

                  

※『おやま 』に沈静というタイトルで収録。

    
  • YouTube Clean
  • Myspace Clean
  • Tumblr Classic
  • Soundcloud Square
  • Facebook Clean
  • Twitter Clean
bottom of page